洋梨とバックロールエントリー

敏宮凌一(旧ペンネーム・敏宮龍一)によるブログ。

『ある山下テツローの場合』→第42話

第42話:From SAT/テツローの父と母のこと

2008年9月のある日。
私は、彼と*1国分寺駅で待ち合わせると、駅から少し離れたところにある一軒の喫茶店へ行く。そこで、彼と私は温かい方のミルクセーキを頼んだ。
この時の取材で、私はテツローの過去の欠片を見たような気になった。

頼んだミルクセーキが来た直後、テツローはこう言った。
テツロー「あの、僕の親のことを話してもいいですか?」
敏宮「・・・ええ、どうぞ。」
テツロー「なんか急に、いま話しておかないといけないような気分になっちゃったもので・・・。」
敏宮「たまに、そんな気分になる時ありますよね・・・。これって、*2オフレコにした方がいいですか?」
テツロー「別に構いませんよ。ただの一般人の雑談ですから・・・。」

私は改めて取材をする体制をとると、彼のいま話しておかないといけない話を聴き始めた。
テツロー「父は東京の興行関係の企業にいた人で、母は秋田(県)で芸者をしていた人でした。父と母は秋田県で知り合ってからお付き合いをするようになって、父が45(歳)で母が22(歳)の頃に、周囲からの反対を押し切って、駆け落ちをして、東京の赤坂で暮らすようになってから、僕が生まれました(笑)。確か、僕は父が58(歳)のときに生まれた子供だと聞いています。」
敏宮「お父さんとお母さんは怖かったですか?」
テツロー「父が怖いと思った記憶はないけれど、母はスゴイ厳しくて怖かったですね。*3食事中の箸の使い方や食事の食べ方とかが悪いと手が出たし、学校のテストで悪い点を取ったら(家の)押し入れに閉じ込められた(苦笑)。」
敏宮「なんか、私の母とちょっと似てますね。私も小さい頃はよく、*4母に叱られてはよく丸裸かパンツ一枚にされて、家の外に立たされていましたし、何度も叩かれてきましたからね。私の母も、芸者さんではないですが秋田(県)出身です(苦笑)。」
テツロー「僕の母より、怖いですね・・・。」
敏宮「そんな経験もしていますから、もしも家庭を持って子供が出来たら、たぶん私自身も、自分の子供や動物に虐待すると思うので、人も子供も動物も好きにならないようにして、生涯独身を貫く覚悟です。」
テツロー「悲しい決断をしたんですね。」
敏宮「別に悲しい決断ではないです。この社会の均衡を保つためにも、自分を守るためにも必要な事ですから、後悔はしてませんよ・・・。」

ハタハタとテツロー

©2021 Ryoichi Satomiya

テツロー「・・・じゃあ、お母さんが秋田(県)の人なら、*5ハタハタって知ってますか?」
敏宮「ええ、知ってます。今はいない母方の祖母が、昔、*6生のハタハタをビニール袋に入れて段ボールの箱に詰めて、普通の郵便小包や宅配便で送って来ていたことが何度かあって、その度に大量のハタハタの煮つけが食卓にあがっていたのを覚えています。でも、私は子供の頃から魚は苦手なので、今でもハタハタは苦手で・・・。」
テツロー「僕の家もそうでした。僕の頃はビニール袋と木箱だったけど・・・。魚は嫌いではないけど、ハタハタだけは今でも苦手で・・・。小骨多いし、卵もネバネバしてるし(苦笑)。」
敏宮「分かります。今でもハタハタを好きになれなくて(苦笑)。よく母から、(ハタハタの)目の周りや胸ビレの付け根の肉や背ビレも食べなさいと言われました・・・。」
テツロー「お母さん、魚好きな人?」
敏宮「だと思います。私が子供の頃には毎日のように剥きガレイの煮つけが出た時代もありましたし、冬には*7たらこ煮や焼き鮭が毎日のように出た時もあったので、魚が大嫌いになったこともありました(笑)。」
テツロー「ご苦労様です(笑)。」
敏宮「スイマセン、脱線させてしまって。お父様の話をお聞かせいただいてもいいですか?」
テツロー「いやいや、脱線させてしまったのは僕の方です。僕がハタハタの事を振っちゃったものだから・・・。謝るのはコッチの方ですよ(笑)。」
敏宮「(笑)」

テツロー「(話を)戻しますね・・・。父からはあまり怒られた記憶は無いし、よく遊んでくれたり、近所や身近にある植物の名前を教えてくれたりもしました。僕が幼い頃は父にまとわりついていました。」
敏宮「私の父とは大違いですね。まとわりつこうものなら、ゲンコツされるし、叩かれたし(苦笑)。」
テツロー「映画やテレビドラマに出てくるような昭和のオヤジなんだ・・・。」
敏宮「いや、ただの冷血漢ですよ。いつも喧嘩が絶えないし、母と私にも手を上げられていますからね・・・。」
テツロー「(ボソボソと、)生まれてくる家は自分の意思で選べない・・・か。(店の非常口の誘導灯を観ながら、)サトミヤさんの“非常口”見つかるといいのにね。」
敏宮「・・・ありがとうございます(苦笑)。話を戻しますね。」

テツロー「僕の父は、都内にある都立高校にも行かせてくれたし、都内の*8私立の四年制大学にも通わせてくれました。」
敏宮「自分の行きたい学校へ通わせてくれる親って、いいですねぇ・・・。」
テツロー「でも、近所の人たちや学校の人たちはどこで調べてくるのかは分かりませんが、父の仕事のせいで、僕は小学生の頃から中学(校)を卒業するまで、学校の先生からも、学校の生徒からも、近所の大人や子供からもいじめられましたね。親以外の大人の中に子供の事を守ろうという考えを持つ人なんて滅多にいなかった。ほとんどは無関心が当たり前だから・・・。」

強くはない

©2021 Ryoichi Satomiya

敏宮「強かったんですね。」
テツロー「そうじゃないんです。強かったとか、そんなではないんですよ。ただ単に生まれてくる家は自分の意思で選べないってだけだから。僕が子供の頃は、今の子みたいにいじめが酷かったら、ほかの地域の学校へ転校するとかサポート校へ通うみたいな、酷いいじめを受けた場合の危機回避策っていうか、選択肢みたいなものなんて無かったし、無かったもの・・・。それにあの頃の子供って奴は、生まれた場所がどんなに悪い環境や状況下であっても、例え血を吐くくらいキツくても、死にたいと思っても、生きるしかなかった。それだけです・・・。」
敏宮「軽々しく“強かった”だなんて言ってしまって、スイマセン・・・。」
テツロー「ごめん!今どきの人には堪えたよね・・・。」
敏宮「お気づかいなく。私の親は戦時中生まれの人間なので、そういう話はいつも聞かされていますので(苦笑)。話を戻しましょう・・・。」
テツロー「・・・ですね。僕の家のせいもあってか、小学校から大学までに友達は出来なかったですけど、受けたい教育を受ける機会があって良かったです(苦笑)。でも、僕が23歳の春に両親は亡くなりました。」

さくらとテツロー

©2021 Ryoichi Satomiya

敏宮「え?」
テツロー「大学の卒業式には来てくれましたが、卒業式が終わると、父から“用事があって先に帰るから、お前は大学の近所の桜でも目に焼き付けてきなさい”と言われたんです。そして桜を見てから家に帰ってくると、家の中で父と母が血を流して倒れていました。」
敏宮「・・・。」

両親との別れ?

©2020,2021 Ryoichi Satomiya

テツロー「僕は警察を呼んだのですが、僕は一晩、警察署の留置所に入れられました。警察の方から父と母を殺害した疑いをかけられて・・・。」
敏宮「やってないのに?」
テツロー「まあ、*9警察の仕事は昔から第一発見者に疑いをかけて、状況や証拠を持ってきて、やったかどうかを決めつける事ですから。あの時の警察の人たちの感じから、疑ってくるだろうと思ったので覚悟はしていましたが、本当に*10ブタ箱へ入れられるとは・・・。」

ブタ小屋のテツロー

©2021 Ryoichi Satomiya

敏宮「・・・怖くなかったですか?」
テツロー「(留置所へ)入れられた時は本気できつかったし、怖かったです・・・。あの頃は過渡期に差し掛かっていたとは言え、まだ一部の大学では*11学生運動が続いていましたから、留置所の檻の中では大学生と思われる人も何人か見ました。因縁吹っ掛けられた事もあったけど・・・。でも、僕が通っていた大学のゼミの教授に電話してもらったことで、次の日にどうにか出られましたが・・・。」
敏宮「出られたんですね・・・。結局、疑いは晴れたんですか?」
テツロー「晴れなければ、ここにはいないよ(笑)。教授がその日の僕のアリバイと無実を言ってくれたので疑いも晴れました。その数日後、両親の死因は出血性ショックで、自殺だったと、警察から報告がありました。」
敏宮「卒業したはずが、先生と再開・・・ですか。」
テツロー「ま、そうね・・・(苦笑)。いまになって思うと、父はヤクザ屋さんと関係のある人だったから警察から目をつけられていたし、自分の子供が長い間いじめられ続けていたことに気が引けたのかもしれないし、自分の子供が親になる時代になっても、その子供の子が“ヤクザの孫”と言われ続けると思い込んで、生き続けることを諦めようと判断し、その考えに賛同した母も、父について行ったのかもしれません・・・。僕の頭ではそう思う事しか出来なかったです・・・。」
敏宮「・・・。」
テツロー「父と母の知人の連絡先を探したり、葬儀をしてもらえる葬儀屋を探しました。あの頃の僕はバイトや内職もした事がなかったから、父と母の知人が、父と母の葬儀の費用を出してくれました。」
敏宮「昔から、お葬式ってお金かかるんですか?」
テツロー「金のかからない葬儀なんて、聞いたこと無いよ(笑)。父と母の時の葬儀は一体いくらかかったかは今でも知りませんが、確か仏式の葬儀だったし、お寺でやっていたから、今の時代の(葬儀)と比べたら、大分お金かかっていたんじゃないかと思います・・・。」
敏宮「*12オイルショックの影響もあるでしょうね。」
テツロー「いや、僕の父と母が亡くなった頃はオイルショックが終わってたかな・・・。物価は上昇していたし、紙不足になったから、大学で使うノートを買うのためらった時もあったし、マンガ雑誌や新聞はページ少なくなっていったのを少し覚えてる。あの頃に売っていた新聞や雑誌の字はもの凄く字が小さかったなぁ。たぶん、サトミヤさんも今の僕も、その頃の本は1ページも読み進められないと思うよ。」
敏宮「そんなに(文字が)小さかったんですか?」
テツロー「目が潰れるんじゃない(笑)。でも、この父と母の葬儀で、父の知り合いだという、立川の葬儀屋の社長さんだという人から“(東京)23区ではないが、うちで働かないか?”と声を掛けられたんです。あの頃の僕はこの街に自分の居場所を見いだせなかったのと、就活も全滅していたので、社長さんの申し出を受け入れて、その葬儀屋がある(東京都)立川へ移住を決めました。」
敏宮「もしかして、就活が全滅したのって・・・。」
テツロー「・・・まぁね(苦笑)。でも、その葬儀社に入社する機会があったから、どうにか生き永らえたよ。」

→つづく・・・。

参考資料
日本史辞典ドットコム「【学生運動とは何だったのか?】簡単にわかりやすく解説!!目的や背景・その後など」
https://nihonsi-jiten.com/student-movemen/
NIKKEI STYLE 池上彰の大岡山通信 若者たちへ「50年前、学生たちの反乱はなぜ起きたのか」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO36018480S8A001C1000001/
ココイロ「学生運動とは?当時の時代背景や現在の学生運動を分かりやすく解説! ( 2 )」
https://cocoiro.me/article/44071/2


今週のお題「忘れたいこと」

*1:「こくぶんじ」と読む。東京都の多摩地域中部に位置する市。お寺と自然が多い地域でもある。

*2:off the record(オフ・ザ・レコード)の略。日本で使われる、記者会見などで報道しないことを条件に情報が提供されること。話の内容を非公開にすることは情報提供側と取材記者との間の約束事であり、それを守るのは記者としての基本的なモラルだという。

*3:昭和時代のあるある話の1つ。現代では「児童虐待防止法」と「児童福祉法」に触れる可能性があるので、絶対にマネをしてはいけない。

*4:昭和時代のあるある話の1つ。現代では「児童虐待防止法」と「児童福祉法」に触れる可能性があるので、絶対にマネをしてはいけない。

*5:オホーツク海日本海の水深100から400メートルの砂泥地に生息する、全長約20cmのウロコのない深海魚。冬が産卵期。冬になると、秋田県の一部地域と日本海沿岸にある地域で、煮つけや「しょっつる鍋」という郷土料理のほかに、干物やから揚げなどの加工品にされて食べられている。

*6:昭和時代のあるある話の1つ。現在は生ものをクール便以外の方法で送る行為は法律で禁止されているので絶対にマネしてはいけない。

*7:ここで言っているのは、塩漬けをしていない生のまだらのたらこを、しょうゆ・さとう・日本酒などを入れて炊いたもののこと。

*8:どうでもいいことかもしれないが、この時テツロー「私立(しりつ)」のことを「私立(わたくしりつ)」と言っていた。私としては文章起こしの良い手掛かりになったので、少し助かった・・・。

*9:テツローの個人的見解です。

*10:警察署の留置施設を表す日本の俗語。昔のブタ小屋(飼育施設)は作りがチープで、見た目的に不衛生に見えたことから生まれたらしい。

*11:学生が中心になって学生生活や政治に対して組織をつくり、問題提起や社会運動を行うこと。日本では1910年代から1920年代の「大正デモクラシー」に始まり、1960年代から1970年代に最も盛り上がった。しかし、過激な派閥による暴力・殺害が相次いだ後に、学生運動は急速に勢いが衰えた。2000年代以降、一部の大学生によってネット・SNS上で学生運動は起きているが、1960年代から1970年代ほどの勢いはないという・・・。

*12:1970年代に2度発生した、原油の供給ひっ迫および原油価格の高騰に伴い、世界経済に起こった大きな混乱の総称。1973年に第四次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり、1979年には イラン革命を機に第2次オイルショック が始まった。くわしくは各自検索していただきたい。

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